2019-10-10 第200回国会 衆議院 予算委員会 第1号
改めまして、日本は、申し上げるまでもなく、四方を海に囲まれ、遣隋使、遣唐使、そうした時代、また、その昔から他国との貿易を通じて日本は豊かに、また彩られてきた、そういう国であります。まさに自由貿易が成長の礎となってきました。しかし、今、世界では保護主義的な動きが台頭しつつあるように思われます。
改めまして、日本は、申し上げるまでもなく、四方を海に囲まれ、遣隋使、遣唐使、そうした時代、また、その昔から他国との貿易を通じて日本は豊かに、また彩られてきた、そういう国であります。まさに自由貿易が成長の礎となってきました。しかし、今、世界では保護主義的な動きが台頭しつつあるように思われます。
もちろん皆様に御紹介するものでもないんですけれども、奈良時代に失明しながら日本に渡り、鑑真というのは、日本の遣唐使から直接依頼を受けて日本にいらした方です。悪徳ブローカーではなく、日本の遣唐使が依頼をしたという。鑑真は失明しながら日本に渡り、日本の仏教の発展に貢献した人物であります。
おい、杉本、何か阿倍仲麻呂だったらしいぞという言葉があって、どんな意味かなというふうに思ったんですけれども、要は、やはり中国、大臣はそういう経験は何度もされているかと思うんですけれども、遣隋使があって、遣唐使があって、唐の時代に遣唐使として行かれたのが阿倍仲麻呂であって、その阿倍仲麻呂から歴史をひもといて中国は話をしてきた、こんなようなお話であったやに聞いています。
池に浮かぶ遣唐使船がこの目玉でございます。これは、二〇一〇年の平城京遷都千三百年祭に続く第二弾の大きなイベントと言えるものでございますが、私が事務所を構えております近鉄奈良線大和西大寺駅、この駅が最寄り駅でございますが、この駅から会場の朱雀門ひろばまで実際には徒歩で二十分かかります。
委員もまた私も同じ九州人でございまして、やはり九州におりますと、アジアというものは、もちろん距離的にもそうですし、心理的にも非常に、古来からの、遣隋使、遣唐使、太宰府とか、そういった古いいにしえの時代からも歴史があるわけでございます。
島には美しいツバキが自生し、古くは遣唐使が往来するなど大陸文化との交流拠点でもありました。また、遠洋漁業や捕鯨の一大拠点として栄えた時期もありました。 現在は、人口減少、高齢化が進む中で、五島市は雇用を生む島づくりを掲げ、地場産業の育成、五島ブランド、特産品の振興に取り組んでおられます。ツバキ油、あるいはマグロ養殖、タカナやブロッコリーなどの野菜、五島牛などに力を入れておられました。
こういったところに、現代版遣唐使というわけではないですけれども、誰でも、研究員でも派遣して、そこのエネルギーのあり方というものを学んで、そして日本に還元できる、こういうようなシステムをお考えいただければなと思うわけでありますけれども、いかがでしょう。
今まで遣唐使のお土産物というのは絹と銀だったわけです。やっと金を手に入れたということで、まず奈良の大仏のメッキに使って、そして遣唐使に持たせて、それで、七百四十九年ですから、最澄や空海が八百六年、八百五年、相次いで帰ってきて、まあ、要するにお経はただじゃくれませんでしたからね。真言宗にしても、すべての仏教関係のいろいろな資料というのは、まさに私たちが今拝んでいるものは、東北で金が出たからですね。
私が一番申し上げたかったのは長期的な展望でありますが、これも、私も中国にもいろんな友人がいるんですが、友人のある高官の一人に私は同じようなことを尋ねましたら、その私の友人が答えましたのは、遣唐使の時代に戻ればいいということが回答でありました。つまり、中華帝国でございます。これが本音であったら本当に私は怖いなということで現在に至っている次第でございます。 以上です。
米国との信頼関係が揺らぐ一方で、小沢幹事長が平成の遣唐使さながらの大訪問団を率いて訪中をし、天皇陛下と中国副主席の特例会見が強行されたことを見れば、こうした疑念が生ずるのも当然であります。 もちろん中国は大切な隣国でありますが、その軍備拡張にひた走る姿や世界のヘゲモニーを握ろうとする姿を見るとき、決して無警戒ではいられません。
これは長安を見てカルチャーショックを受けたと思うんですけれども、そういう遣隋使、遣唐使という人たちがその技術を学んで、そして日本でこういう平城宮を造ったということで、中国と日本のいわゆる交流の原点はここにあるんじゃないかということを僕も申し上げたわけですけれども、そのように歴史、ここは、文化庁造っていただいた周辺は国営公園としてこの二十年度から造成をさせていただいております。
また、遣唐使の時代にあっては、五島列島の三井楽から最後の船出をしていきました。また、元寇、蒙古襲来の折には、大変な我が県犠牲を被りましたけれども、そういう我が長崎県の離島、半島地域が防波堤になってこの国土を守ったというような歴史もございます。
これは、遣唐使が中国と行き来するときに使った港であり、また鑑真和尚が本土へ上陸するときに立ち寄った港でございます。そこで、前の晩からいそ釣りをしようということで泊まっていまして、渡し船でいその一番突端に、へばりつくようなところで釣りを始めたところで携帯が鳴りました。
○伊吹国務大臣 今先生のお話を伺っていまして、私が私の子供に昔話したことをちょっと御紹介しますと、かつて、中国という国は非常に日本の文化の父のような国と言われて、あちらで知識を取り入れるということは、遣唐使、遣隋使と言われて、当時としては大変名誉なことであったようですが、隋の国へ行こうというときに、大きな国へ行くことに非常に、遠い国でもありますし、恐れおののいていた人を励まして、山上憶良が詠んだよく
日本の文化も、昔は遣唐使その他の留学生が外国から文化を持って帰って、日本の文化を、歴史をつくってきたじゃありませんか。それと同じように、アジアの日本から見れば経済規模の小さい国も、それぞれの国を立派につくりたいと思っているに違いありません。 だからこそ、そういう国に対して思い切った留学生制度の方針というのを打ち出すことによって、日本は発想を転換してきたと。
かつて、中国へ渡ろうとした遣唐使かな、当時、万葉のときですから遣隋使ですかね、この人たちが、中国というのは非常に大きな国だからといって心配していたときに、山上憶良が詠んで彼を励ました歌があるんですね。「倭の国は皇神の厳しき国」「倭の国は言霊の幸はふる国」と。
これは文化交流使、遣唐使、遣隋使にちなんでいるんだと思うんですけれども、非常に目玉的におっしゃるんですけれども、一体どれぐらいの方が向こうに出ていかれて、どれぐらいの方と交流されて、どれぐらいの方がこっちに来られたりしているんですか。人数ですよ。二十五という数字を役所の資料で見たんですけれども、二十五名の方が約四百万円ぐらいかけて海外に出ていって活動されたんですか。
それで、これは何とかしなきゃと言っていて、聞いてみたら、何と阿倍仲麻呂が遣唐使として、七六一年から七六七年に、当時中国がベトナム、この地域を支配しておられましたから、中国のいわゆる科挙を通った官僚として、長官としてこの地域を六年間治めていた。もしかしたら提督といううわさもあるんですけれども。
東の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ み吉野の象山のまの木ぬれにはここだも騒ぐ鳥の声かも 旅人の宿りせむ野に霜降らばわが子羽ぐくめ天の鶴群 何もわからぬでも、何となく、聞いておって、ああ、遣唐使を送るお母さんが、空を飛ぶツルの群れを見て、私の息子は船に乗って遣唐使で行ったけれども、どこかの港に宿って野営するときに、霜が降ったら、そこのツルさんよ、おりてきて自分の子をこうしてよ
そういった新たな観光資源を最大限活用いたしまして、そしてまた、例えば江田島の旧海軍兵学校でございますとか、また倉橋の昔の中国に派遣をした遣唐使の船の製造所、あるいは蒲刈の造船施設、そういったものを周遊コースで結びまして、観光振興、そしてさらにはビジット・ジャパン、海外からも積極的な観光のPR、誘致を行いたいということでございます。 そして、三番目の若年雇用者の問題。